みず道探訪

~水と緑のつながりを求めて~

第3回 田村分水と湧水ー福生市大字福生

写真と文は加藤嘉六さん

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福生市と言えば米軍横田基地を思い浮かべる方が多いと思いますが、今回は福生市の街の礎となった大字福生です。以前この地を訪ねた時に感じたのですが、田村酒造(創業文政5年、1822年)の周りには蔵や古い大きな農家、いくつかの寺院(清岩院、室町時代など)が点在し、古い集落跡と思われ気になっていました。今回の探訪で、玉川上水右岸と多摩川左岸の間、ここは古くから農業のみならず酒造や製糸工場など、福生の近代化に関わりが深い歴史ある場所であったことが分かりました。


         ※※※ 田村分水編 ※※※

 福生分水は年表(アサヒタウンズ編集)によれば、元禄年間(1688~1704)に開設とされ、福生市史では明治9年(1876)に通水と表記されていることが、この度の編集作業で初めてわかりました。現時点ではどちらも間違いとは言い切れないようです。この差約170年......。そこにはどんな物語があったのでしょうか。ここでは併記と致します。

福生の分水と田用水※1の概略図。

 福生市郷土資料室年表17/福生市教育委員会刊より抜粋。図中、川崎村田用水は多摩川から直接引いたものです。

※1 田用水とは”水田用の水”の事飲料水は呑用水(のみようすい)と言ったようです

田村分水取水口と玉川上水に面して築かれた石垣(2013年、国の登録有形文化財指定)。2014.10撮影


右、水車小屋は酒造りにかかせない精米や発電に使われた。左、脇蔵は水車小屋で精米した米の貯蔵庫だそうです。それぞれ昭和前半の建築。2004撮影

田村酒造酒蔵と田村家屋敷。2014.10撮影


昔、玉川上水から取り入れられた水は水車を回し、ここ「洗い場」に至った。何気なく突き出た足場にも人知が詰まっているように感じます。2004撮影

一朝一夕では造りえない見事な風景。2004撮影


農地沿いを流れる田村分水2014.10撮影

正面から流れてきた田村分水はこの農家の屋敷の下を潜りぬける。2004撮影


1960年以降、かつての田園地帯は宅地化が進み、現在一か所残っている田んぼ(北田園)。短縮された田村分水は、この先多摩川へ向かう。2014.10撮影

現在の田村分水は永田橋近くの多摩川河川敷へ流れ落ちる2014.9撮影


公園化された河川敷(多摩川中央公園)を流れ下り、かつての五日市街道多摩川の「牛浜の渡し」記念碑の脇を通り、やがて多摩川と合流する。2014.9撮影


田村分水は酒造のために精米製粉する水車を回す動力として取水されましたが、下流の福生村水田開発・田用水にも利用され、福生分水ともよばれました。

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