みず道探訪

~水と緑のつながりを求めて~

第5回 笹塚の玉川上水(残された開渠)―渋谷区笹塚

=== 暗渠化を防いだ女性達 ===

           (2014年6月3日 訪問)

==  訪問記 ==   

 ちむくいのリー、加藤、水口の3名で、京王線・笹塚駅に、裏祐子さんを訪ねに行きました。裏さんは、玉川上水のラムサール条約登録を目指す「ちむくい」の活動が紹介された朝日新聞の記事を見て、リーさんに電話をくださり、「笹塚近辺の玉川上水の暗渠化を防いだ活動」について教えてくれた方です。

 笹塚駅の改札を出ると、2人の年配の女性が出迎えてくれました。裏祐子さん(85)と佐久間ヒサノさんです。近くの集会所で、お話を伺いました。

昭和35年に青山学院大学法学部教授だった夫を失った裏さん。都心に住んでいた裏さんは翌年、玉川上水などの自然がまだ残っていた渋谷区に移り住みました。

  昭和49(1974)年3月20日。愛する玉川上水が暗渠化されることを知った裏さんは、職場である世田谷区・烏山北小学校の学童クラブを訪問に来た公明党の甲斐円次郎区議に、相談しました。円次郎氏は、渋谷区議である兄の甲斐孝喜氏を紹介してくれました。

  早速、裏さんを訪ねてきてくれた孝喜区議は、玉川上水を目にして、啓蒙されたと言ったそうです。孝喜区議によると、そのとき既に8,406万円の暗渠化の予算が計上されており、次年度には工事が始まる予定だったそうです。

  孝喜区議の勧めで、3月渋谷区議会に、笹塚1丁目34~38番地の玉川上水を暗渠にせず残すよう求める請願を出すことにしました。3月23日の請願締切までほんのわずかな時間しかありませんでしたが、ご近所の佐久間さんや今井さんに声をかけ、戸別訪問で署名を275名分集めました。PTA会長だった杉本善次さんに協力をお願いし、請願の代表者になってもらいました。請願文は、当時大学生だった長男が書いてくれました。3月23日に、甲斐孝喜区議を紹介議員として請願提出。甲斐議員は、公明党の他の議員を説得してくれました。もう決まっていることを・・と、非難されたと聞きました。

  その後、杉本氏を発起人として、守る会を結成し、毎月第一日曜日の午前10時から川掃除をしたりしているうちに、皆の意識も高まっていきました。

  昭和51年10月22日には、やはり杉本さんが請願人代表となり、都へも請願を出しました。この請願は、昭和53年7月10日に都議会で採択されました。このことがきっかけで、笹塚駅周辺では、玉川上水が一部暗渠化を逃れ、現在も水と緑に触れられる癒しの空間として残っています。

  当時PTAでは、開渠にしておくと、子供たちが危ない、という意見も多く、近隣の人々は、いずれは暗渠になるだろうと静観していた、というのが実情だったそうです。月日の流れとともに、皆さんの意識も変わってきました・・と裏さんは振り返りました。今でも水辺には亀や蛙、白鷲、鴨などを見ることができるそうです。


         =====  2014年9月 笹塚付近 =====

写真は加藤嘉六さん

笹塚駅前から改修工事後の上流を望む

自然豊かだった改修前の姿を留めるケヤキの大木



上流部から下流の笹塚方向を望む



         ========  資料集 ========

              暗渠化を防いだ当時の資料

①「玉川上水旧水路一部保存に関する請願」(渋谷区議会へ提出)   

請願の趣旨 一、玉川上水の旧水路の一部の保存。

 一、緑の樹木と水のある景観の保存。

 一、郷土史蹟としての保存。

理由: この笹塚一丁目3435363738番地を貫流している玉川上水旧水路は、環状7号線と甲州街道という交通量の多い幹線道路に近い位置にあります。窒素酸化物、亜硫酸ガス、一酸化炭素による呼吸器系疾患が発生しているという話も聞かれません。何故でしょうか。このわずかに残されている自然環境が大気の浄化に一役買っているからであろうことは想像に難くないところであり、科学的にも確かなところでありましょう。大気汚染に対する一つの防壁としてのこのわずかな自然環境の存在価値を評価したいのです。

 現在、子供達は土と水から次第に遠ざかりつつあるように思われてなりません。季節感や生物に対する興味とも縁遠くなりつつあります。子供の情操を伸ばす機会が減少している時に野鳥や野草を目の前で見られる環境を少しでも残しておくことは将来に対する使命ではないでしょうか。現在のところはゴミや危険箇所も多く不十分であります。しかしこれらに手を入れて自然を残しておくことは積極的な意義を有すると信じます。

 都市の過密化の進行は周知のとおりであります。その結果都市問題を発生しています。そして人々相互に共通感情というものが忘れ去られていくようです。幸い明治を偲ばせる旧三田用水の取水口もあり、玉川上水とともに史蹟として保存することによって郷土意識を高め、人々の交流に貢献することができると思われます。

 自然というものは目に見えない大きな影響力を持っています。ことに日本人にはその国民性として、自然の中に入っていくことによって自分をとりもどすという面があると思われます。

 物資の生産は一応の段階に達した今日、自然の持っている精神的価値というものを大事にしたいと考えます。        昭和49322


②裏祐子さんの要請文(署名活動の際に書かれた文章です)

 石油不足、物価の急騰と心身ともに寒さを覚えた冬も終わろうとしています。しばらく冬枯れの淋しさを見せていたこの川沿いの景色も春の喜びを示し始めました。土堤にどっしりと根を下ろした木々も環七と甲州街道を間近にした排気ガス公害にも負けず、新芽を吹き始め、名も知らぬ雑草の緑ですら安らぎと憩いを與えてくれます。都内にしては珍しいと言われる澄んだ川底には小魚の浮遊する姿さえみられます。

 皆さん、おぼえていらっしゃいましょう。去年の春、何処から飛んできたのか鶯が美しい声で鳴きながらこの川の木から木へと渡っていたのを、通りすがりの人が首をかしげ、その声の主の姿をみようと求め、歩いていたのを。

 夏になれば、この川面はコンクリートの照り返しと異なり、万金に代えられぬ涼しい風を運んでくれ、そして足裏に感じる土の確かさを・・。人々は車を避けて此の川沿いの道を歩き、犬の散歩道となるのを。蝉の鳴き声、モンシロチョウ、シジミチョウ、時には姿を消してしまったと聞く黒アゲハチョウの連れ舞う姿さえ目にしたのを・・。鳩、雀、尾長鳥、篭から逃げてきたと思える美しい小鳥たちが水を求めて飛来するのを。皆さんもそれを美しいと眺められたことと思います。それが今、永久に失われようとしています。

 皆さん!!ご存じでしたか。此の貴重な川が区の計画で埋められ遊園地、あるいは遊歩道に代わろうとしています。勿論、子ども達の遊び場も必要です。しかし、成長期の子ども達に自然の姿を見せ、そこから得られる心のゆとり、自然を愛し大切にする気持ちを育てる方がもっと大切なのではないでしょうか。

 また、明治を偲ぶ旧三田用水の取水口もあり、郷土の貴重な史蹟として水の流れと共に長く保存してもらいたいと考えました。

 戦前を覚えていられる方が申されます。子ども時代にこの川で蛍狩りをしたと・・。また、東京大空襲の火災の時もこの川に身を伏せ、水をかぶって命を助かった人が大勢いられると・・。

 京王線の複々線工事も進んでおり、超過密の生活環境から考えても、此の川をもっと美しい流れにし、危険な雑物を川底から取り払い、あるがままの姿で私達の手で今一度、昔の蛍を呼び戻したいとお思いになりませんか。

 私達にもこの川を守る一筋の道が残されています。それは、今月二十三日まえに此の川を守る趣意書に署名を集めて区議会に提出することです。

 何卒多くの方が御賛成下さり署名をしていただき、私達に残された一筋の流れを、自然を守ろうではありませんか。


③朝日新聞 昭和49年(1974年)4月22日(月)  東京版


ザリガニ天国なぜ壊す  都が今年中に暗きょ作り 

「史跡なのに・・」住民ら反対請願 渋谷 玉川上水の650m


「ビルと住宅のなかにかろうじて残った自然とそのなかにある史跡を守ってほしい」と渋谷区笹塚一丁目の住民が玉川上水の保存を同区議会に請願した。だが、都水道局はことし中に暗渠にする方針。区もその上を緑地化の計画。「まだザリガニやコイのいる自然を、なぜ、大金をかけて破壊してしまうのか」-地元の人々は素朴な疑問を投げかけている。

 玉川上水ができたのは1655年。・・渋谷区内には4km余の水路が通っていたが、世田谷区、新宿両区の側から暗渠化が進み、残るは笹塚一丁目と西原二丁目のところ650mだけとなっている。

 渋谷区教育委員会は47,8年にわたり区内の文化財を調べた。そのとき、まだ暗渠化されていないところは分水口が昔のまま残り、周囲も灌木が生い茂り、「ほんの一握りだが、武蔵野のおもかげもある」として、将来、文化財保存の区条例ができたときは史跡指定するリストに載せた。つまり、いまは「周知の史跡」。子どもたちにとっては、ザリガニとりで自然にふれる場所でもある。

 ところが、都水道局浄水課は「間もなく水はとめてしまう考えだ。いまのまま保存するのは維持管理に金がかかりすぎる。水も大変なムダ」と効率一点ばり。「水がないなら暗渠化も仕方がない、と区から聞いている」と既定方針を変えるきざしはない。

 これに対して、笹塚一丁目、杉本善次さんらは住民252人の署名を集めて「こどもの情操を伸ばすためにも野鳥や野草のある環境を残してやりたい。史跡保存で郷土愛も育てたい」と3月末に区議会に請願。「弱者保護が叫ばれているが、貧しい人、からだの弱い人だけでなく、自然や文化財も環境のなかの弱いもの。都や区は守る側にあるはず。」と訴える。



④読売新聞 昭和61年(1986年)8月27日 

 

玉川上水  区部に生きる 武蔵野のおもかげ伝え

 

 玉川上水は、羽村町の取水口から四谷大木戸(新宿区)までの延長43km。うち、12kmは区部を通っている。その区部の玉川上水は、いまでは見る影もない暗渠になっている-とばかり思ったのだが、どっこい、生き延びている所があった。

 渋谷区笹塚に二か所、世田谷区大原に一か所。それぞれの長さが200m、170m、100m。灰色の都会に残る一片の<武蔵野>である。

 区部の玉川上水の暗渠化が始まったのは、淀橋浄水場が廃止になった40年から。

 「あのころは、不要になった玉川上水にフタをかけ、その上を遊歩道や児童公園にするのが流行だった。私も町会の意見として都や区に早く暗渠にするよう要望したものです」。笹塚1丁目の仲町町会会長、中村金太郎さん(79)はそう回想する。「しかし、笹塚地区は“渋谷区の北海道”なんていわれ、施設整備はどうも遅れがちだった」。

 現在、区部12kmのうち、3kmは中央高速道路(一部首都高速4号線)に、残る9kmが「緑道公園」や「遊歩道」と名前こそ違うが、蓋をかけ、その上を“有効利用”している。

 渋谷区の場合も下流から順次暗渠化が進行したが、そのうち「緑豊かな玉川上水を残そう」という声が住民の間から上がり出す。49年3月、都議会に提出された保存請願の代表者名は「杉本善次」とある。

 杉本さんは、笹塚1丁目の豆腐屋さんだった。当時、地元の小学校のPTA会長で、徐々に暗渠になっていく玉川上水を見て、「これは、子供たちに残しておくべき歴史的遺産ではないのか」と思い始める。その心情がしだいに共感の輪を広げ、PTAの親たち283人の署名となって結晶する。そして、一部ではあるが、玉川上水は昔のままの姿で残った。

 杉本さんは4年前にガンで亡くなっている。妻のシズエさん(60)を訪ねた。

 「店の仕事もほっぽり出して保存運動に駆け回っていました。フタをしなければ蚊がわくなどと文句も言われました。でも、主人は、土手に桜の木を植えれば子供たちが大きくなるころには立派な花が咲くぞって。今でも土手を歩くと、あの人の魂が残っているようで・・」

 杉本さんたちの請願を追うように、仲町町会からも保存要望が。「町会の中から、武蔵野の面影を残して、という意見が多く出てきたんです。時代の流れでしょうかね。私も、今は残しておいてよかったと思ってます」と中村会長。

 区部に残った玉川上水には、今回の都の清流復活事業による下水処理水は流れない。処理水は、区市部の境から神田川へ誘導される。

 だが、川底の流れはこの21年間、少ないけれども絶えたことはないという。シズエさんは、「どこかにわき水がある」と信じている。“人工”の下水処理水ではない、本物の清流-。はだしの子供たちが、きょうも無邪気にザリガニ取りを楽しんでいる。(おわり)

 文・谷矢哲夫記者